相続登記未了のまま放置した実家マンション──義務化直前に発覚した「権利の連鎖」を解きほぐし、3代分の相続手続きを経て売却完了に至った14ヶ月の記録
- 6月4日
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相続登記の「義務化」が迫る中、発覚した衝撃の事実
2024年4月1日、相続登記の義務化が施行された。
相続から3年以内に登記しなければ、10万円以下の過料が科される。
この制度変更を前に、一人の依頼者が慌てて不動産会社の門を叩いた。
「亡くなった母のマンションを売りたいんです」
神奈川県横浜市在住の田村健一さん(仮名・58歳)は、2023年秋、相続登記義務化のニュースを見て初めて行動を起こした。
母・田村芳江さんは2021年に86歳で他界。
それから2年以上、実家マンションの名義変更は放置されたままだった。
「父が先に亡くなっていたので、母の単独名義だと思っていました」
田村さんはそう語る。
しかし、登記簿謄本を取り寄せた瞬間、彼の認識は根底から覆された。
所有者欄に記載されていたのは、母の名前ではなかった。
「田村清太郎」──それは、田村さんの祖父の名前だった。
祖父が亡くなったのは1987年。
実に36年前である。
そこから始まったのは、3代にわたる相続関係を解きほぐす、14ヶ月の長い道のりだった。
なぜ相続登記は放置されるのか──日本特有の構造問題
相続登記の未了は、田村家だけの問題ではない。
法務省の調査によれば、全国の土地の約24%が所有者不明とされる。
マンションも例外ではない。
なぜこれほど放置されてきたのか。
理由は単純だ。
これまで相続登記は「任意」だったのである。
登記しなくても、固定資産税の請求先を届け出れば、事実上の所有者として住み続けることができた。
登記には費用がかかる。
司法書士への報酬、登録免許税、戸籍謄本の取得費用。
数万円から数十万円の出費を避けたい心理は、理解できなくもない。
「いつかやろう」が「そのうち」になり、「そのうち」が「忘却」に変わる。
こうして、名義が故人のまま何十年も経過する物件が、日本中に積み上がった。
田村家のケースは、その典型例である。
祖父から父へ、父から母へ、母から子へ。
3回の相続が発生したにもかかわらず、一度も登記が更新されなかった。
その結果、田村さんは「36年分の権利の連鎖」を一人で解きほぐすことになった。
第一の壁──祖父の相続人を確定させる
相続登記を行うには、まず相続人を確定させなければならない。
田村さんの祖父・清太郎には、4人の子供がいた。
長男が田村さんの父・正雄。
次男、長女、次女の4人兄弟である。
1987年に祖父が亡くなった時点で、遺産分割協議は行われなかった。
つまり、マンションは4人の「法定相続」状態のまま放置されていた。
ここで最初の問題が発生する。
4人の相続人のうち、2人がすでに他界していたのだ。
次男は2003年に、長女は2015年に亡くなっている。
彼らの相続権は、それぞれの配偶者と子供に「数次相続」として引き継がれる。
田村さんは、まず祖父の出生から死亡までの連続した戸籍謄本を取得した。
次に、4人の子供それぞれの戸籍を追跡。
さらに、亡くなった次男と長女の相続人を特定するため、その子供たちの戸籍も必要になった。
「戸籍を集めるだけで3ヶ月かかりました」
田村さんはそう振り返る。
最終的に判明した「祖父の相続に関わる権利者」は、11人に上った。
第二の壁──父の相続、そして母の相続
祖父の相続人を確定させただけでは終わらない。
田村さんの父・正雄は2008年に他界している。
父が祖父から相続した権利は、母と田村さん、そして妹の3人に移転している。
さらに2021年、母も亡くなった。
母の相続分は、田村さんと妹の2人で分けることになる。
つまり、一つのマンションの名義を変えるために、3回分の相続手続きを同時並行で進める必要があった。
しかも、それぞれの相続で遺産分割協議書を作成し、全員の実印と印鑑証明書を集めなければならない。
田村さんは、弁護士と司法書士の両方に相談した。
弁護士からは、こうアドバイスされた。
「祖父の相続から順番に処理するしかありません。飛ばすことはできないのです」
法律上、相続登記は「連続性」が求められる。
祖父から父へ、父から母へ、母から子へ。
この順番を飛ばして、いきなり祖父から田村さんへ名義を移すことはできない。
ただし、一つだけ例外がある。
「遺産分割協議」によって、最終的な取得者を一人に決めれば、中間の登記を省略できるケースがあるのだ。
11人の相続人への連絡──想像を超える困難
戸籍調査で判明した11人の相続人。
田村さんにとって、全員が「知らない人」というわけではなかった。
しかし、疎遠な親戚も少なくない。
特に、次男の子供たち(田村さんのいとこ)は、20年以上連絡を取っていなかった。
「叔父の葬式以来、会っていませんでした」
田村さんはまず、住所を特定することから始めた。
戸籍の附票を取得すれば、本籍地から住民票の住所を追跡できる。
しかし、附票の保存期間は5年。
転居を繰り返している場合、追跡が途切れることがある。
田村さんのいとこのうち、1人の住所がどうしても判明しなかった。
最終的には、別のいとこを通じて連絡先を入手。
突然の電話に、相手は当然ながら警戒した。
「急に『相続の話』と言われても、詐欺かと思いますよね」
田村さんは事情を説明し、司法書士から正式な書面を送ることで、ようやく理解を得た。
「ハンコ代」という名の暗黙の慣習
11人の相続人全員から同意を得る。
言葉にすれば単純だが、現実は複雑だ。
なぜなら、彼らにも「相続する権利」があるからである。
祖父のマンションを田村さん一人の名義にするということは、他の相続人が権利を「放棄」することを意味する。
無償で放棄してくれるとは限らない。
ここで登場するのが、いわゆる「ハンコ代」である。
遺産分割協議書に実印を押してもらう見返りとして、金銭を支払う慣習だ。
法的な義務ではないが、実務上は広く行われている。
田村さんのケースでは、相続人によって対応が分かれた。
父の妹(田村さんの叔母)は、「36年前のことだし、兄(田村さんの父)が住んでいたのだから当然」と、無償で協力してくれた。
一方、次男の子供たち3人は、それぞれ30万円の支払いを求めた。
「正直、納得はできませんでした。でも、これ以上長引かせたくなかった」
田村さんは交渉の末、3人に合計90万円を支払うことで合意した。
さらに、長女の子供2人にも各20万円、計40万円を支払った。
ハンコ代の総額は130万円。
これは、マンションの売却代金から差し引かれることになる。

遺産分割協議書の作成──11人分の署名と実印
金銭面で合意が得られても、手続きはまだ半ばである。
次は、遺産分割協議書の作成だ。
司法書士が作成した協議書には、以下の内容が記載された。
「被相続人・田村清太郎の遺産である下記不動産について、相続人全員で協議した結果、田村健一が単独で取得することに合意した」
この協議書に、11人全員の署名と実印が必要になる。
印鑑証明書も全員分揃えなければならない。
問題は、相続人が全国に散らばっていることだった。
神奈川、東京、大阪、福岡、北海道。
郵送でやり取りするしかない。
しかし、郵送には時間がかかる。
印鑑証明書の有効期限は発行から3ヶ月。
全員の書類が揃う前に、最初の人の印鑑証明書が期限切れになるリスクがあった。
田村さんは、司法書士と相談し、2回に分けて書類を集めることにした。
まず、協力的な親族から先に署名を集め、次に交渉が長引きそうな親族に対応する。
それでも、全員の書類が揃うまでに4ヶ月を要した。
相続登記の完了──法務局への申請
2024年6月、ようやく遺産分割協議書が完成した。
司法書士が法務局に相続登記を申請。
申請から約2週間後、登記が完了した。
登記簿謄本の所有者欄に、ついに「田村健一」の名前が記載された。
1987年から2024年まで、実に37年ぶりの名義変更である。
登記にかかった費用は以下の通りだった。
登録免許税:約18万円(固定資産税評価額の0.4%)。
司法書士報酬:約25万円(戸籍収集、書類作成、申請代行含む)。
戸籍謄本・住民票等の取得費用:約3万円。
合計約46万円。
これにハンコ代130万円を加えると、売却前の段階で176万円の出費となった。
売却活動の開始──築45年マンションの現実
相続登記が完了し、ようやく売却活動を開始できる状態になった。
物件は、埼玉県さいたま市の築45年・3LDK・専有面積68㎡のマンションである。
最寄り駅から徒歩12分。
エレベーターなしの5階建て、田村家の部屋は4階に位置していた。
田村さんは、まず3社の不動産会社に査定を依頼した。
A社:980万円。
B社:850万円。
C社:1,100万円。
査定額に大きな開きがあった。
高い査定を出したC社に詳しく聞くと、「リノベーション需要を見込んだ価格」との説明だった。
一方、最も低いB社は「現実的に売れる価格」を提示したという。
田村さんは、A社と専任媒介契約を結んだ。
「高すぎず低すぎず、バランスが取れていると感じました」
売れない日々──築古マンションの厳しい現実
売却活動は、想像以上に難航した。
内覧希望者は月に1〜2組。
しかし、いずれも成約には至らなかった。
断られる理由は、ほぼ共通していた。
「エレベーターがないのは厳しい」
「設備が古すぎる」
「管理組合の修繕積立金が少ないのが気になる」
特に、修繕積立金の問題は深刻だった。
このマンションの修繕積立金は、月額わずか6,000円。
築45年で大規模修繕が迫っているにもかかわらず、積立金の総額は1戸あたり200万円程度しかなかった。
近い将来、臨時徴収が行われる可能性が高い。
買主にとって、これは大きなリスク要因である。
3ヶ月経過しても、成約の見込みは立たなかった。
価格改定と戦略の転換
売り出し開始から3ヶ月、田村さんは価格改定を決断した。
980万円から880万円へ、100万円の値下げである。
同時に、不動産会社からの提案を受け入れ、ターゲットを「リノベーション投資家」に絞ることにした。
「一般の居住者ではなく、投資目的で購入する層を狙いましょう」
不動産会社の担当者はそう提案した。
投資家にとって、築古マンションは利回り重視の対象となる。
購入価格が安ければ、リノベーション費用を上乗せしても採算が合う。
賃貸に出せば、表面利回り8〜10%を狙える可能性がある。
戦略変更後、投資家からの問い合わせが増え始めた。
価格改定から1ヶ月後、都内在住の不動産投資家から買付申込みが入った。
提示された価格は820万円。
田村さんは、50万円の上乗せを交渉し、最終的に850万円で合意した。
売買契約から引き渡しまで
2024年10月、売買契約が締結された。
買主は現金購入のため、融資審査の期間は不要だった。
契約から引き渡しまで、約1ヶ月。
11月下旬、司法書士立ち会いのもと、決済と引き渡しが完了した。
売却代金850万円から、以下の費用が差し引かれた。
仲介手数料:約36万円(3%+6万円+消費税)。
相続登記費用:約46万円。
ハンコ代:130万円。
その他(残置物撤去、測量等):約15万円。
手元に残ったのは、約623万円だった。
田村さんは、このうち半分を妹に分配。
最終的な取り分は、約311万円となった。
14ヶ月を振り返って──田村さんの述懐
「正直、割に合わないと思いました」
田村さんは、14ヶ月間を振り返ってそう語る。
戸籍収集に3ヶ月、親族との交渉に5ヶ月、相続登記に2ヶ月、売却活動に4ヶ月。
仕事の合間を縫って、膨大な時間と労力を費やした。
金銭的にも、ハンコ代130万円は想定外の出費だった。
「祖父や父が生きているうちに登記をしておけば、こんな苦労はなかったはずです」
田村さんの後悔は深い。
しかし同時に、「やり遂げた」という達成感もあるという。
「これ以上放置すれば、次は私の子供たちが苦労することになる。その前に片付けられて、よかったと思っています」
相続登記義務化の意味──2024年4月以降の変化
2024年4月1日、相続登記が義務化された。
相続を知った日から3年以内に登記しなければ、10万円以下の過料が科される。
過去の相続についても、2027年3月31日までに登記する必要がある。
この義務化は、田村家のような事例を減らすための措置である。
しかし、現実には「すでに放置されている物件」が膨大に存在する。
国土交通省の推計によれば、所有者不明土地は全国で約410万ヘクタール。
九州の面積を上回る。
マンションについては正確な統計がないが、同様の問題を抱える物件は相当数に上ると見られる。
義務化によって、今後は「相続が発生したらすぐに登記する」という意識が広まるだろう。
しかし、過去に放置された物件の処理は、これからも続く。
専門家が語る「相続登記放置」の対処法
本件を担当した司法書士は、同様の案件が増加していると証言する。
「義務化を前に、駆け込みで相談に来る方が急増しています」
特に多いのが、「親が亡くなったが、祖父母の名義のままだった」というケースだ。
対処法について、司法書士は以下のようにアドバイスする。
第一に、まず登記簿謄本を取得して現状を確認すること。
第二に、戸籍収集は早めに着手すること。
第三に、親族との関係が良好なうちに話し合いを始めること。
「時間が経てば経つほど、関係者が増え、連絡が難しくなります。一日でも早く動くことが重要です」
また、相続人が多数に上る場合は、弁護士への依頼も検討すべきだという。
「交渉が難航した場合、家庭裁判所の調停を利用する選択肢もあります。専門家の力を借りることを躊躇しないでください」
教訓──「先送り」のコストは想像以上に大きい
田村さんのケースから得られる教訓は明確だ。
相続登記の先送りは、将来の世代に「負の遺産」を残すことになる。
今回、田村さんが支払ったハンコ代130万円は、「36年間の放置」の代償である。
もし祖父が亡くなった直後に登記していれば、相続人は4人だけだった。
父が亡くなった直後なら、相続人は母と田村さん、妹の3人だけだった。
時間の経過とともに、関係者は増え、手続きは複雑化し、コストは膨らむ。
これは、田村家だけの話ではない。
全国に存在する「名義が放置されたマンション」は、いずれ誰かが処理しなければならない。
その「誰か」が、あなた自身になる可能性は、決して低くない。
編集部まとめ
相続登記の放置は、不動産の「塩漬け」を生む。
売却できない、活用できない、税金だけがかかり続ける。
田村さんのケースは、その典型的な帰結を示している。
3代分の相続手続き、11人の相続人との交渉、130万円のハンコ代、14ヶ月の歳月。
これらすべては、「先送り」の代償である。
2024年4月の義務化以降、相続登記を放置するリスクはさらに高まった。
過料の問題だけではない。
時間が経てば経つほど、解決のハードルは上がり続ける。
本記事を読んだ方の中に、「うちも同じ状況かもしれない」と思い当たる方がいるかもしれない。
その場合、まず登記簿謄本を取得することをお勧めする。
法務局で1通600円、オンラインなら500円で取得できる。
現状を把握することが、すべての出発点である。
相続は、いつか必ず自分の問題になる。
その日に備えて、今できることを、今やる。
それが、次の世代への最大の贈り物となる。
執筆:マンション売却ジャーナル編集部




