認知症の親が所有するマンション──成年後見人申立てから売却許可審判、そして引き渡しまで18ヶ月間の全記録
- 5月15日
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発端──母の異変に気づいたとき、すでに契約能力は失われていた
2022年8月、私は母が住む埼玉県川口市のマンションを訪れた。
リビングのテーブルには開封されていない封筒が山積みになっていた。
電気料金の督促状、固定資産税の納付書、そして見知らぬリフォーム会社からの契約書。
78歳の母は「あら、来てたのね」と笑顔で私を迎えたが、その目は私を息子と認識しているのか怪しかった。
翌日、かかりつけ医に連れて行くと、アルツハイマー型認知症の診断が下された。
長谷川式認知症スケールの点数は12点。
医師は「契約行為の判断能力は既に失われている」と明言した。
父は5年前に他界し、母は一人暮らし。
築28年、専有面積62平米、3LDKのマンションは母の単独名義だった。
私は東京都内で妻子と暮らしており、母の介護と自宅の維持を両立させることは物理的に不可能だった。
施設入所を決断したのは2022年9月のことである。
問題はここからだった。
施設費用は月額18万円。
母の年金収入は月12万円。
不足分を補うには、マンションを売却するしかない。
しかし認知症で判断能力を失った本人は、不動産売買契約を締結できない。
不動産会社に相談すると「成年後見人を立てないと売却は無理です」と即答された。
そこから始まった18ヶ月間の記録を、ここに残す。
成年後見制度の現実──「家族だから」では売れない法的壁
成年後見制度とは、判断能力が不十分な人の財産管理や身上監護を行う制度である。
家庭裁判所が後見人を選任し、本人に代わって法律行為を行う権限を与える。
私は当然、息子である自分が後見人になれると考えていた。
現実は甘くなかった。
弁護士に相談すると、こう告げられた。
「不動産売却を目的とした申立ての場合、親族が後見人に選任されるケースは3割程度です」
最高裁判所の統計によると、2022年に選任された成年後見人等のうち、親族が選任された割合は約19.1%にとどまる。
残り8割は弁護士、司法書士、社会福祉士などの専門職が選任されている。
理由は明白だ。
不動産売却という大きな財産処分を伴う場合、利益相反の懸念から専門職が選ばれやすい。
息子である私が母の財産を「処分」する立場に立つことを、裁判所は警戒する。
それでも私は、自ら後見人候補者として申し立てることを選んだ。
理由は二つある。
一つは、専門職後見人への報酬負担を避けたかったこと。
専門職が選任された場合、月額2万円から6万円程度の報酬が本人の財産から支払われる。
母の存命中、この費用は継続的に発生し続ける。
もう一つは、母の生活全般を把握している私が、最も適切な判断ができると確信していたことだ。
2022年10月、さいたま家庭裁判所川口支部に成年後見開始の審判申立書を提出した。
申立て準備──揃えるべき書類の膨大さに愕然とする
成年後見の申立てに必要な書類は、想像を超えて多い。
まず、申立書本体と申立事情説明書。
本人の生活状況、財産状況、後見人を必要とする理由を詳細に記載する。
次に、本人に関する書類として戸籍謄本、住民票、登記されていないことの証明書が必要だ。
「登記されていないことの証明書」とは、本人がまだ成年後見制度を利用していないことを証明する書類である。
東京法務局で取得する。
医師の診断書も必須だ。
家庭裁判所所定の書式があり、かかりつけ医に依頼して作成してもらう。
診断書作成料は5,000円から1万円程度。
財産目録の作成が最も手間がかかった。
母の預貯金口座の残高証明書、保険証券のコピー、年金額の通知書、そして不動産の登記事項証明書と固定資産評価証明書。
母の通帳を探し出すだけで3日を要した。
タンスの奥、仏壇の引き出し、本棚の裏。
認知症の進行とともに、母は大切なものを「安全な場所」に隠す癖がついていた。
結局、5つの金融機関に口座があることが判明し、すべての残高証明書を取得した。
収支予定表も作成する。
今後の収入見込みと支出見込みを月単位で算出し、本人の生活が成り立つことを示さなければならない。
申立て費用として、収入印紙800円、登記印紙2,600円、郵便切手約4,000円分、鑑定費用の予納金として5万円から10万円。
私の場合、鑑定は省略されたため、予納金は返還された。
書類一式を揃えるのに、約1ヶ月を要した。
家庭裁判所の審理──調査官面接という関門
2022年10月下旬、申立書が受理された。
約2週間後、家庭裁判所から連絡があった。
調査官による面接調査を行うという。
調査官面接は、後見開始の審判において最も重要なプロセスである。
本人の状態を直接確認し、後見人候補者の適格性を審査する。
11月中旬、調査官が母の入所している施設を訪問した。
私も同席を求められた。
調査官は母に簡単な質問をした。
「今日は何月何日ですか」「ここはどこですか」「このお名前は誰ですか」
母は私の名前を答えられなかった。
「息子さん……だと思うんだけど」
その言葉を聞いた瞬間、涙をこらえるのに必死だった。
調査官は淡々とメモを取り続けた。
その後、私への聞き取りが行われた。
「なぜ不動産を売却する必要があるのですか」
「売却代金はどのように管理する予定ですか」
「他に親族はいますか。その方々の意見はどうですか」
私には妹が一人いる。
妹は九州に嫁いでおり、母の介護には関われない状況だった。
事前に妹の同意書を取得していたことが、審理をスムーズにした。
親族間で意見が対立している場合、審理は長期化する。
最悪の場合、専門職が後見人に選任される可能性が高まる。
12月上旬、再度裁判所から連絡があった。
「鑑定は省略し、診断書をもって判断能力の審査を行います」
鑑定とは、医師が本人の判断能力を詳しく検査する手続きである。
費用は5万円から10万円、期間は1〜2ヶ月を要する。
診断書の内容が明確であれば、鑑定は省略されることがある。
私のケースでは、かかりつけ医の診断書が詳細だったため、省略が認められた。
後見開始審判──予想外の「監督人」選任
2023年1月、成年後見開始の審判が下された。
申立てから約3ヶ月。
標準的な期間である。
審判書を開いた瞬間、予想外の文言が目に飛び込んできた。
「成年後見人 申立人(私の氏名)」
「成年後見監督人 ○○法律事務所 弁護士○○」
私は後見人に選任された。
しかし同時に、弁護士が後見監督人として選任されていた。
後見監督人とは、後見人の事務を監督する立場の人である。
不動産売却など重要な財産処分を行う際、後見監督人の同意が必要となる。
さらに、後見監督人への報酬も本人の財産から支払われる。
月額1万円から2万円程度が相場だ。
私は落胆した。
専門職への報酬負担を避けるために親族後見人を目指したのに、結局、監督人への報酬は発生する。
しかし弁護士に相談すると、こう言われた。
「監督人が付くことで、不動産売却の許可申立てがスムーズになります。むしろ良い結果だと考えてください」
後見監督人がいる場合、家庭裁判所は後見人の判断をより信頼する傾向がある。
売却許可審判の審理期間が短縮される可能性が高まる。
この助言は、後に的中することになる。
居住用不動産の売却許可──もう一つの裁判所手続き
成年後見人に就任しても、すぐに不動産を売却できるわけではない。
被後見人の居住用不動産を売却するには、家庭裁判所の許可が必要だ。
民法859条の3に明記されている。
「成年後見人は、成年被後見人に代わって、その居住の用に供する建物又はその敷地について、売却、賃貸、賃貸借の解除又は抵当権の設定その他これらに準ずる処分をするには、家庭裁判所の許可を得なければならない」
この許可を得るための手続きが「居住用不動産処分許可申立て」である。
許可を得ずに売買契約を締結した場合、その契約は無効となる。
2023年2月、私は不動産会社に査定を依頼した。
複数社に見積もりを取ることが重要だ。
後見人には「善管注意義務」があり、本人にとって最も有利な条件で売却する責任がある。
3社に査定を依頼し、結果は以下の通りだった。
A社:1,980万円、B社:1,850万円、C社:2,050万円。
最も高い査定を出したC社と媒介契約を締結した。
ただし、売り出し価格は査定額より若干高めの2,180万円とした。
許可申立ての際、裁判所は売却価格の妥当性を審査する。
複数社の査定書を添付し、相場に見合った価格であることを示す必要がある。
買主との交渉──後見案件特有の困難
2023年4月、内見希望者が現れた。
40代の夫婦で、子ども2人の4人家族。
現在は賃貸住まいで、初めてのマンション購入を検討しているという。
物件を気に入ってくれたが、購入申込みには至らなかった。
理由は「引き渡し時期が不確定」だったことだ。
通常の不動産売買であれば、契約から1〜2ヶ月で引き渡しが完了する。
しかし後見案件の場合、売買契約後に家庭裁判所の許可審判を得なければならない。
許可が下りるまで、早くて2週間、長ければ2ヶ月以上かかる。
許可が下りなければ、契約は白紙撤回となる。
買主にとって、この不確実性は大きなリスクである。
住宅ローンの本審査、引っ越しの手配、子どもの転校手続き。
すべてのスケジュールが裁判所の審判次第となる。
最初の買主候補は、この条件を受け入れられず、購入を見送った。
5月、6月と内見は続いたが、成約には至らない。
不動産会社の担当者は「後見案件であることを事前に説明すると、検討を辞退する方が多い」と打ち明けた。
7月、価格を2,080万円に改定した。
8月、ようやく購入申込みが入った。
50代の投資家で、賃貸運用を目的としていた。
「裁判所の許可が下りるまで待つ。多少時間がかかっても構わない」
その言葉に、私は心から安堵した。
投資目的の買主は、引き渡し時期に柔軟なことが多い。
実需(自分で住む)の買主よりも、後見案件との相性が良い。
売却許可申立て──裁判所を納得させる書類の作り方
2023年8月下旬、居住用不動産処分許可申立書を家庭裁判所に提出した。
申立書には、売却の必要性を詳細に記載する。
私が記載した内容は以下の通りだ。
「本人は認知症により特別養護老人ホームに入所しており、自宅に戻る見込みはない。施設費用は月額18万円、年金収入は月額12万円であり、月6万円の不足が生じている。預貯金残高は約350万円であり、このままでは約5年で枯渇する。本人の生活を維持するため、不動産を売却し、その代金を施設費用に充当する必要がある」
添付書類として、以下を用意した。
売買契約書案、重要事項説明書案、不動産会社3社の査定書、固定資産評価証明書、登記事項証明書、物件の写真、施設の入所契約書、本人の収支計算書。
後見監督人の弁護士には、事前に売却計画を説明し、同意書を取得していた。
この同意書が、審理を円滑にする鍵となった。
9月中旬、家庭裁判所から補正の指示があった。
「売却代金の使途計画をより詳細に記載してください」
私は向こう10年間の収支シミュレーションを作成し、追加提出した。
売却代金約2,000万円を原資として、月6万円の不足分を補填すれば、約27年間は本人の生活が維持できる計算を示した。
母は78歳。
平均余命を考えれば、十分な資金計画である。
許可審判──待ち続けた1ヶ月半
補正書類を提出してから、裁判所からの連絡を待つ日々が続いた。
この間、買主との売買契約は「停止条件付き」で締結していた。
停止条件とは、「家庭裁判所の許可を得ることを条件として、本契約の効力が生じる」という特約である。
許可が下りなければ、契約は最初から存在しなかったことになる。
手付金100万円は預かっていたが、許可が下りなければ全額返還となる。
10月に入っても、裁判所からの連絡はなかった。
買主から「いつ頃になりそうですか」と問い合わせが入る。
「もう少しお待ちください」としか答えられない。
10月下旬、ようやく家庭裁判所から書面が届いた。
「居住用不動産処分許可審判書」
許可が下りた。
申立てから約2ヶ月。
後見監督人が付いていたことで、審理期間が短縮されたと弁護士は分析した。
監督人がいない場合、3ヶ月以上かかることも珍しくないという。
決済・引き渡し──最後の関門
2023年11月、決済日を迎えた。
場所は買主の利用する金融機関の応接室。
出席者は私、買主、不動産会社の担当者、司法書士、そして買主側の金融機関担当者。
通常の決済と異なる点が一つあった。
私は「成年後見人」として契約当事者となる。
売主欄には「被後見人○○○○ 成年後見人○○○○」と記載される。
司法書士は、後見登記事項証明書を確認した。
私が正当な後見人であること、居住用不動産処分許可審判が下りていることを確認する。
すべての書類確認が完了し、買主から売買代金が振り込まれた。
2,050万円。
諸費用を差し引いた手取りは約1,920万円だった。
内訳は以下の通りだ。
仲介手数料:約72万円、抵当権抹消登記費用:約2万円、契約書印紙代:1万円、その他諸費用:約5万円。
売却代金は、母名義の銀行口座に入金した。
後見人として管理する財産となる。
この資金を施設費用に充当しながら、母の生活を支えていく。
18ヶ月を振り返って──この経験から学んだこと
2022年8月に母の異変に気づいてから、2024年2月の確定申告完了まで、約18ヶ月を要した。
この経験から、いくつかの教訓を得た。
第一に、親の判断能力が衰える前に、家族で不動産の将来について話し合っておくべきだ。
家族信託や任意後見契約という選択肢がある。
判断能力があるうちに手続きしておけば、成年後見申立ての手間と時間を大幅に短縮できる。
第二に、成年後見制度は「本人保護」のための制度であり、「家族の利便性」のための制度ではない。
裁判所は常に「本人にとって最善の選択か」を審査する。
家族の都合で売却を急ぎたくても、そのペースに裁判所は合わせてくれない。
第三に、専門家の力を借りることをためらうべきではない。
私は費用を抑えようとして自力で申立てを行ったが、結果的に多くの時間と労力を費やした。
司法書士や弁護士に依頼すれば、申立て費用は15万円から30万円程度かかる。
しかし、書類作成の手間と精神的負担を考えれば、十分に価値のある投資だ。
第四に、後見人になった後も責任は続く。
家庭裁判所への定期報告、収支の管理、財産目録の更新。
母が存命である限り、この責任から解放されることはない。
不動産売却は、後見事務の一部に過ぎないのだ。
編集部まとめ
本稿は、認知症の親が所有するマンションを売却した実例の記録である。
成年後見申立てから売却完了まで18ヶ月。
この期間は決して特殊な長さではなく、むしろ標準的と言える。
高齢化社会において、同様のケースは今後も増加の一途をたどる。
2023年末時点で、成年後見制度の利用者数は約24万人。
認知症高齢者の数約700万人と比較すれば、制度の利用率はわずか3%程度に留まる。
制度を知らない、手続きが煩雑、費用がかかる。
さまざまな理由で、必要な手続きが取られないまま、不動産が塩漬けになるケースが後を絶たない。
親の不動産をどうするか。
この問いは、いずれすべての家族に訪れる。
その時に慌てないために、本稿が一つの参考になれば幸いである。
執筆:マンション売却ジャーナル編集部
メタタイトル:認知症の親のマンション売却|成年後見から完了まで
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